2019年7月31日水曜日

きょうのご飯

 今日は野菜の届く日だった。月に2回ほどお願いしている野菜ボックスで、知り合いのオーガニック農家さんが直接家まで配達してくれる。ご主人がひとりで来ることが多いけれど、今日は奥さんも、それに夏休みだから娘さんも一緒だった。かわいらしい高校生の娘さんだった。見るからにあたたかそうなご家族に癒される。そんな私はまったく昼寝をしようとしない子供たちに苛々しながらインターホンに出てしまったのだった。猛省。
 届いた野菜ボックスの中身は毎回開けてからのおたのしみになっているが、開けてみると今日はいつもに増してめずらしい品揃えだった。UFOピーマン(本当にUFOのような形。以前UFOズッキーニというのもあった、かぼちゃのような味だった)に、ピーマンとまと(パプリカのような見た目のトマト)、とうがらし福耳(とにかく大きい甘長とうがらし)、それにミニトマトと乾燥ズッキーニ、青長なす。一番気になったのは「ホーリーバジル」。調べてみたらガパオライスに使うハーブらしい。というより、「ガパオ」=「ホーリーバジル」なんだって。確かにバジルなんだけど、味噌を混ぜたような、不思議に個性的な香りがする。というわけで晩ごはんにはネットで見つけたガパオ炒めを作ってみることにした。
 使ったのは青長なすと福耳とうがらし、玉ねぎ、ピーマンとまと、豚の薄切り肉、それにホーリーバジル。多めのオリーブオイルで炒めて、オイスターソースとユウキの鶏がらスープで調味。これにはご飯が合いそうだけど、ムスメのリクエストにより主食は冷たいうどんだった。でもガパオ炒めはとても美味しくできた。ハーブ嫌いな夫もよろこんでたくさん食べていた。
 ちなみに朝食ははちみつバタートースト(でもその前に紆余曲折あったのだ)とヨーグルト、それに私はアイスカフェオレ。
 昼は、カクカクジカジカで書ききれず。さらに晩ごはんの準備をしようとした時もムスメが「おかあさんオセロやろ、いっかいでいいから!」と懇願してくるので仕方なく付き合っていたら息子が邪魔に入って一旦休戦(結構な修羅場)、落ち着いて初めからやり直し、、、今日は三食とも一筋縄ではいかなかったのだった。
 ゆっくりしたいなぁ。

2019年7月30日火曜日

ももむすめ

 今朝のムスメの朝食は、ももふたつ。産直で買った、わりとお値打ちな桃。
 でもそのお値打ちな桃がわたしにとっては上等なのだ。わたしは甘すぎる果物が好きではないので、ブランドの立派なものよりも、庭でできたような、小ぶりで少し酸味のある果物が断然すきである。
 びんぼうで育ったからそもそもブランドの果物なんてあまり口にする機会がなかったのだけど、去年どこでいただいたのか、ナントカいうブランド葡萄(もちろん種なし!)を食べさせてもらうことがあった。驚くほどの強烈な甘みに目を見張った。
 いつもスーパーの果物売り場で綺麗に包まれて並んでいる果物たちは、こんな味だったんだ!でも何粒か食べるうちに、贅沢にも「もういいや、、、」とおもう自分がいて、それにも驚いた。
 結局おいしく食べられたのは、ムスメにと89歳の祖父が買ってくれた300円くらいの種ありの巨峰だった。それはほどよい酸味があって、本当においしかった。
 そういえば巨峰といえば、以前見た小津映画(たぶん、小津監督のものだったはず)の中で、若い奥さんがひたすら葡萄をたべるシーンがあったなぁ。
 カーディガンだか開襟シャツだかに、地味なスカートを履いて白い前掛けをして、足元はくるぶしまでの靴下(だったような気がする)という昭和の出で立ちの若奥さんが、なにやら文句を言いながら巨峰を一粒頰ばっては種をぷっと出し、それを手で受ける。食べては出し、食べては出し。黙々と葡萄をたべていたシーン。このごろはもう種のある葡萄の方がめずらしいのかもしれない。
 冬に食べた、「甘い」というのを前面に出して売られていた蜜柑も、甘すぎてどうも口に合わなかった。蜜柑なんて続けて3つくらいは普通にたべるのに、甘すぎると次への手がのびない。
 私は子供の頃「毎日果物をたべて暮らしたい」と本気で思っていたけれど、母は滅多に果物なんて買ってくれなかった。例外的に母の大好物の蜜柑だけは毎年箱買いしていたのでいくつでもたべられたけど、いちごとか、桃とか、葡萄とか、そういうのとはやっぱり違うなのだ。
 そういうわけで子供を産んでからは、自分の恨みを晴らすかのように季節ごとの果物をできるだけ堪能することにしているから、我が家の食卓にはわりと頻繁に果物がのる。
 ゆうべ寝室へ行くまえ、例によって台所に置かれた桃を見つけたムスメは「明日の朝は桃をたべる」と決めていたのだ。
 ミルク色の肌にほんのりさしたピンクが愛らしい桃だった。産毛のあるビロードの皮を剥きはじめても、きわめて控えめなその香り。
 種をとるあいだにも、ほんのり乳白色をおびた雫がこぼれてゆく。皮と種はパンの酵母にするため瓶に入れる。ほそいほそい絹糸のような繊維を感じながら包丁でやさしく切り分ける私のとなりで、ムスメはお気に入りの緑がかったガラス製の果物皿を持って待ちかまえていた。
 ムスメは欲張っておかわりをしたけど、さすがにふたつ目は最後までたべられなかったので私がいただいた。
 あんなに好きだった果物を、ムスメのおこぼれだけで良いと思えるようになったのは、私にも母性というものがあるのだなと実感できる数少ない事柄のひとつなのである。

ジャズクラブ

 いつも通る街のなかの、ごくふつうの飲み屋さんのとなりや、駅から住宅地へ向かうしずかな道沿いの階段を上がったところ、そういう何でもないところにジャズクラブはあるのだけど、ひっそりと閉まるそのとびらの向こうの世界を知っている人は案外すくないのかもしれない。
 そこではじめてジャズを聴いた時のわたしの胸は、未開の地へ降りたったような果てしないおどろきとほんの少しの恥ずかしさと、しかしそれらを覆い隠すほどのたっぷりした心地よさに満ちていた。
 外はいつもの夜の街なのに、とびら1枚はさんだだけの向こう側にこんな世界があったなんて!
 そこは行ったことのないアメリカの古い酒場であったり灼熱のキューバであったりすることもあれば、やわらかな雨の降る森であったり、夜のしじまであったりもする。小鳥が鳴いていることだってある。
 それらは毎晩ひそやかに、でもごく平然と、あのとびらの向こうにあって、わたしを迎え入れてくれる。

2019年7月28日日曜日

世界は私に何も要求などしていないのだ

 まったくわたしは、ほんとうにあきれるほど子育ての才能がない。もうそれはどうしようもないことなんだと、やっとあきらめるに至ったところ。昨日か、今日あたりにようやく。
 「あれ?なんでこんなに子育てが困難なのだろう」、と思い始めたのはいつ頃か、、、むすめが2歳になろうとしているころか、2歳になって、息子が生まれてからか。
 とにかく、もともと自分には逆立ちしてもでんぐり返しをしても転げても何をしてもできないこと、たとえば、おさかなが陸で暮らすとか、まぁそこまでいかなくても、人前に出るのが心底苦手な人がまいにち朝から晩まで(そして夜中もずっと!)接客業をするとか、そういう類のことを、「親なのだから」というたったそれだけの、ほんとうにただそれだけの理由で、たったひとりでやり続けて、自分でも気づかないうちに無理を重ねて(だって、わたしのまわりにいるお母さんたちは、なんだかんだ文句を言いながらも、全員、もれなくみんな、毎日24時間、休みなく子育てをしていたから、親ならそういうものでしょう、自分にもできないはずなんてないんだと思って)、そんなことをしていたんだから、気づいたときにはもう「わたし」という人間をすっかり見失ってしまうほどに自分の人格が歪んでしまっていた。
 どういうふうになっていたかというと、元来わたしは「小さな小さな家で、愛する家族と好きな本にかこまれて、おいしいパンと、卵と葉っぱ(それに季節の果物も)を食べて暮らせたらそれがしあわせ」という人間だったのに、それがいつのまにか、自分の住む家がはりぼてのように思えてきて、夫の発することばにいちいち苛々し、自分だけの大切な本をおさめた書庫のとびらは閉まったまま、なにを食べても感動しない。それに一番は、とにかく自分という存在がゆるせなくて、どうしてもどうしてもゆるせなくて、毎日ほんとうにつらい、そういう状況になっていた。
 どうにかしなければともがけばもがくほど、孤独の海は深まるばかり。水面の上では、お陽さまをあびて生き生きと暮らす友人たちが見える。わたしとはまるで違う世界で暮らす、まぶしい人たち。童話の人魚姫でいうなら、豪華な船でパーティーをする王族たちかな。ではわたしは人魚姫か?いいえ、わたしは海の底の悪い魔法使いだったかも。それか、魔法使いに魂を売って姿を変えられてしまった醜い生き物たち。
 たまにわたしは魔法の力で姿を変えてきらびやかな世界へ行けることがあるけれど、仮の姿は長くはもたず、すぐにまた冷たい海の底へと堕ちてしまう。そしてそんなわたしの姿を見た人は誰もいない。
 このつらいつらい2年半ほどのあいだ、「なにもしなくていいよ、どんな姿でもいい、あなたはただそこにいればいい。」と、誰かに言ってもらいたかった?でも言われても納得しなかったかもしれない。
 水面へは、自分のちからで這い上がるしかないのだ。(でも専門のお医者さんへかかってもよかったなとは思う、わたしはその代わりに素晴らしい整体の先生にであった。先生はただ、わたしの躰の歪んだところをやさしくやさしくもとの場所に戻しながら、たまに質問を投げかけてはそれにこたえるわたしの話をふんふんと聞いてくれただけだが、それだけでわたしの肺にたまった海水はずいぶんと外へ排出された。)
 それで基本的には自分のちからで水面へ出るべく、映画を観たり本を読んだり外へ出かけていたりしていて、たまたま出会った一冊の本に、ようやく救われたような気がしている。
 江國香織さんの散文集「物語のなかとそと」そいう本、ここに書かれている江國さんという人は--こんなことを言ったらほんとうにわたしは自意識過剰だとおもわれてもまったくその通りだけどと前置きしつつも--、わたしと同じ「人種」であった。
 ひとつのことが気になったらそれを解決しなければどうしても「気がすまない」ところ、パンと果物をこよなく愛しているところ、アルバイトはなにをやってもうまくいかずいつも「落ちこぼれ」だったところ、「物を考えることがあまり得意ではない」ところ、加えて「模索と判断がきわめて苦手」なところ、絵本が好きで、マーガレット・ワイズ・ブラウンが好きなところ、、、あぁ、もしかしたらこういう人はたくさんたくさんいるのかもしれない。いいえ、きっとゴマンといるだろう。
 でも、そんな江國さんがご自身の孤独だった過去をふりかえって「あれは必要な孤独だった」と書かれていたこと、そして「世界は私になにも要求していない」「私はただそこにいればいいのだ」(『模索と判断』の章。)と書かれていたことが、それらのうつくしい言葉たちの書かれているこの本が、唯一、地上に戻ろうとしているわたしをいまこの瞬間も支えている。育児のできない自分を、ゆるせた気がする。

 さて、私はこうして落ちこぼれの自分をゆるしたまま、しかしこの先も引き続きちいさなふたりの子供を育てていかなくてはならない。もちろん、我が家には「育児に協力的な」、いえむしろ「私よりずっとずっと育児が上手な」夫もいるが(お料理だけは私の方が上手だ)、悲惨なことに彼は1日の大半を仕事によって留守にしている(ほんとうにそれを思うだけでいつも絶望的な気持ちになる)。
 と、そういうわけで、よくある家庭が皆そうであるように、子供たちに食事を与えたり、おやつはごはんのあとで!とたしなめたり、抱っこしてやったり、喧嘩するふたりの話を聞いてやったり、そういうことはほとんどひとりでやらなくてはならない。
 それをどうやって、自分をゆるした状態を保ちながらやればいいのか。自分をゆるすって、つまり「育児のできない自分をゆるす」、イコール「育児をしない」ということだと思うのだけれど、それで考えてみたことは、「自分の思い描く『親らしいこと』はしないでよい」ということ。
 それってつまり、ご飯の前におやつを食べさせないこと、栄養バランスを考えたご飯をきちんと食べさせること、なるべく子供の近くにいて一緒に過ごしてあげること、夜ははやく寝かせること、歯磨きをさせること、お風呂に入れること、喧嘩を上手におさめること、夜に子供を夫に預けてしょっちゅう外出したりしないこと、、、。
 あぁどれも考えただけでよろめきそう。とにかくこれらを、苦にならないようにこなしたい。ご飯の前におやつが食べたいと言われたら、食べさせちゃえばいいや(娘は幼稚園で毎日素晴らしい給食をいただいているから、1食くらいおやつで潰れたっていいよね。それにお腹が空いたらまたおにぎりでも食べさせればいいことだし)。ご飯は栄養バランスというよりも私の食べたいものを用意する(毎日パンと果物だけだからって、多少偏っても栄養失調にはならないでしょう。なにしろ、お昼にすばらしい給食を食べているんだからね)。ひとりの時間が欲しい時は、延長保育や預かり保育を罪悪感なしに利用しよう(とにかく自信を持って、お母さんがブレないでいれば子供も不安にならないらしい)。寝かしつけの時に絵本を読んであげることだけは、私の趣味でもあるので、喜んで読もう。歯磨きは1日一回、寝る前に。仕上げ磨きの時どうしても手がだるくてつらいので、子供の仕上げ磨き用の電動歯ブラシを買う予定。しかも大変な下の子の歯磨きは夫担当。お風呂は、こちらも夫にお任せ。または行水みたいなのでいいや。それもしんどいなら濡れタオルで身体を拭くとかでいいよね(いつだかNHKの「すくすく子育て」で『真夏に3ヶ月お風呂に入ることを拒否した男の子がいたけど、何の問題もなかったよ』ととある保育園の園長先生が語っておられたのを忘れたことはない)。喧嘩の仲裁はしない(「『ごめんなさい』という言葉がなくても仲直りできるのがきょうだいの素晴らしいところだから、喧嘩の仲裁なんてしなくてよい」と大好きな育児書に書いてあったからこれを採用)。夜は、気兼ねなく出かけよう。幸いうちの夫は「いいよ、全部やっておくから心配しないで行っておいで」と言ってくれる神のような人だから、甘えよう。
 そうやって明日からやってみよう。自信を持って。大丈夫。
「世界は私に何も要求していないのだから」(呪文のようにとなえる)。


2019年7月27日土曜日

きょうの朝食と、贅沢なものについて

今朝は例によってトーストしたパンから始まる。
すももの酵母でつくったパン。でも酵母が弱くて、途中からドライイーストを加えてむりやり膨らませたものです。切ったパンは、ほんとうはトースターで焼くよりも、バターを溶かしたフライパンで、軽く上を押さえながらじわじわと焼いたものが一番おいしいと思う。
 それはトースターで焼いたのとはまるでちがう物になっているのです。表面のほんの薄いところだけがかりっと焼けていて、中は水分をふくんでふんわりしています。バターの少し焦げた匂いも良いし、パンそのもののかおりも倍増しているような気さえする。
 でもどうしてもそんなふうに焼くための時間と手間をかけられなくて(そうしている間にも子供たちが代わる代わるやってきては、抱っこしてだの、髪を結んでだの言ってくるから)、どうしてもトースターにぽいっと放り込んでおしまいということになってしまうのです。
 それでもコーヒーは豆から挽いているから、がんばっていると思う(自分だけのために)。
 でも私には小さな小さな、だけどとても大きな不満があるのです。それは今使っているコーヒーメーカーの存在。夫が勤め先のバザーで買ってきたもので、豆を挽くためのミルが付いたごく一般的なものです。
 控えめな茶色がかった灰色で、だれをも敵にするまいというようなまあるいフォルム。後ろ側には機械に関する説明書きのシールが貼ってあるのだけれど、うちの台所は対面キッチンなのでカウンターの上に置いておくとそのシールも丸見え。それで何が言いたいかというと、私はいつだって「詩」のある物に囲まれて暮らしたいと思っているのだけれど、そのコーヒーメーカーからは、どうしても詩が聞こえないのです。
 コーヒーメーカーが悪いわけでも、それを買ってきた夫が悪いわけでもなく、ただ、詩が聞こえない!それこそがもうどうしても、私の暮らしに少しずつ何か雑音を生じさせているような気がして、なんとももやもやするのです。それが毎日だから、実は結構しんどいのです。それって多くの人にはわかってもらえないことなのだろうか。
 私は贅沢かなと思ったこともなんどもあります。でもたぶんそれは世間のいう「贅沢」とは違って、とても簡素なもの、「詩」のある物に囲まれて暮らしたいという願望だけ。
 白いお皿、金の縁かがりのついたカップ、電気の通らないガラスのコーヒーメーカー、ひんやりとしたタイルが貼ってある台所と洗面。みずみずしい果物と甘いパン、しゃっきりした野菜に新鮮な魚と肉。夢のような卵料理。りんごのお酒。白い綿のシーツのはられた大きなベッドにお気に入りの本だけが並べられた本棚、、、。
 上を見ても下を見ても、ふりかえっても、どこを見ても、詩が聞こえてくるものばかりに囲まれて暮らしたい!私は心底そう思って生きています。
 でもそれがこんなに難しいなんて。たまに絶望的な気持ちにもなる。

 そんなことを毎日考えながら、今日も、トーストしたパンを隣の息子に食べられ、その間にも息子は自分のお茶漬け(こちらも御多分に洩れず)をぼろぼろこぼすのでそれをひろいながら、またはんたい隣のムスメに「おかあさんにたべさせてもらいたい」とせがまれてプリンセスふりかけのかかったご飯をたべさせてやりながら、私の朝食は忙しなく一瞬で過ぎていったのでした。

2019年7月26日金曜日

きょうのこと

「秘密」。
ほんとうの「秘密」とは、「秘密にする」ものではなく、誰かに知られても、見られてもちっともかまわないのに、ほかの人にはなかなか見えない、夜中に闇の中でするお手玉に似ている、と江國香織さんが書いていらっしゃった。

 そうか、と思い、私も、私の秘密をつくってみることにしました。
ここへ書いてみようと思います。
 思っていることなんでも、きょうあったことや、見たものも、いろいろ。
 誰かに言うでもなく、隠すでもなく、ただ書いてみる。


 そんなわけで、きょうのこと。
朝は自分でめざめたのか、携帯のアラームが先だったか、はたまた2歳の息子に起こされたのか、もはや思い出せません。
 おなじ朝のくりかえし。近頃は息子が早起き。
やわらかな、きよめ餅の肌の息子。頰やふとももなんか、 ほんとうにおいしそう、、、。
 息子は私の左側で寝ていて、はんたいの右側には4歳の娘が寝ている。まだ寝ている娘を起こさないように、寝起きのおもたい身体をむりやり起こして、急いで息子を抱っこしてそっと部屋を抜け、一階へおりる。
 子供たちの朝食は、息子が「毎朝快調ヨーグルト」とお茶漬け(永谷園のふりかけで、夫がつくってやっていた)。夫も同じもの。
 後に起きてきた娘は、卵かけご飯。
我が家の朝食は起きた順にばらばら。夫なんか普段は朝食をたべる時間もなく、私が握ったおにぎりを持って早朝に家を出てしまう。
 私はだいたいいつもパン。朝はパンがいい。とにかくパンが大好き。家族が何を食べようが、パン。パンじゃなかったら、パンケーキやスコーン、マフィンなどの粉ものをたべる。 それにカフェオレ。 夏は冷たいのを、冬は暖かいのを飲む。
 ほんとうは、ちょっと甘いパンに(もちろん暖かいもの)、脂ののったベーコンと、とろりとした黄身の目玉焼きがついていたら(それにオレンジジュースまであったら!)最高だけど、そんなものを自分のために作る気力はなかなかなくて、いつも焼いたパン一切れに冷たいバターを乗せて台所で立ったままたべるか、子供に挟まれてせわしなくたべるかで終わってしまう。
 朝食って、「朝食」というものそれ自体が、 朝のしろい空気の感じやテーブルに並んだお皿や、 おいしい匂いや、「卵」という響き、 ぼんやりした頭のなか、、、その全部を含めて私の大好きなもののひとつなのに。
 それらはもはや、感じようとするその先からこどもたちの声にかき消されてゆく。とても悲しい、、、。

 昼ごはんは、私以外みんな弁当。
夫のは、豚丼( 豚肩肉しゃぶしゃぶ用は霜降り。玉ねぎ、コンニャクと一緒にめんつゆで煮て、ご飯にのせ、紅生姜を添える)。
4歳ムスメは昨日の夕飯の残りのミートソーススパゲッティ、冷凍ブロッコリーの塩オリーブオイルあえ、キャンディチーズ。
2歳息子はワカメおにぎり(ワカメふりかけにsinseiのすりゴマ)、イシイのミートボール、姉と同じブロッコリー、キャンディチーズ。
 私は出先で、もち麦入り梅干しおにぎり(ローソンの)をたべ、家に帰って息子が朝残したお茶漬けをかき込んで、すぐまた外出。

 晩ご飯は、豚丼をみんなそれぞれに(息子はふりかけご飯と豚丼の具を別々に、ムスメは豚丼に卵黄のせ、私は豚丼に紅生姜)。
 子供たちは結局あまり進まず、わがままを言ってアイスを食べた。

きょうはそんなふうでした。



「秘密」。
ただここへ来て書くだけ。