2019年7月28日日曜日

世界は私に何も要求などしていないのだ

 まったくわたしは、ほんとうにあきれるほど子育ての才能がない。もうそれはどうしようもないことなんだと、やっとあきらめるに至ったところ。昨日か、今日あたりにようやく。
 「あれ?なんでこんなに子育てが困難なのだろう」、と思い始めたのはいつ頃か、、、むすめが2歳になろうとしているころか、2歳になって、息子が生まれてからか。
 とにかく、もともと自分には逆立ちしてもでんぐり返しをしても転げても何をしてもできないこと、たとえば、おさかなが陸で暮らすとか、まぁそこまでいかなくても、人前に出るのが心底苦手な人がまいにち朝から晩まで(そして夜中もずっと!)接客業をするとか、そういう類のことを、「親なのだから」というたったそれだけの、ほんとうにただそれだけの理由で、たったひとりでやり続けて、自分でも気づかないうちに無理を重ねて(だって、わたしのまわりにいるお母さんたちは、なんだかんだ文句を言いながらも、全員、もれなくみんな、毎日24時間、休みなく子育てをしていたから、親ならそういうものでしょう、自分にもできないはずなんてないんだと思って)、そんなことをしていたんだから、気づいたときにはもう「わたし」という人間をすっかり見失ってしまうほどに自分の人格が歪んでしまっていた。
 どういうふうになっていたかというと、元来わたしは「小さな小さな家で、愛する家族と好きな本にかこまれて、おいしいパンと、卵と葉っぱ(それに季節の果物も)を食べて暮らせたらそれがしあわせ」という人間だったのに、それがいつのまにか、自分の住む家がはりぼてのように思えてきて、夫の発することばにいちいち苛々し、自分だけの大切な本をおさめた書庫のとびらは閉まったまま、なにを食べても感動しない。それに一番は、とにかく自分という存在がゆるせなくて、どうしてもどうしてもゆるせなくて、毎日ほんとうにつらい、そういう状況になっていた。
 どうにかしなければともがけばもがくほど、孤独の海は深まるばかり。水面の上では、お陽さまをあびて生き生きと暮らす友人たちが見える。わたしとはまるで違う世界で暮らす、まぶしい人たち。童話の人魚姫でいうなら、豪華な船でパーティーをする王族たちかな。ではわたしは人魚姫か?いいえ、わたしは海の底の悪い魔法使いだったかも。それか、魔法使いに魂を売って姿を変えられてしまった醜い生き物たち。
 たまにわたしは魔法の力で姿を変えてきらびやかな世界へ行けることがあるけれど、仮の姿は長くはもたず、すぐにまた冷たい海の底へと堕ちてしまう。そしてそんなわたしの姿を見た人は誰もいない。
 このつらいつらい2年半ほどのあいだ、「なにもしなくていいよ、どんな姿でもいい、あなたはただそこにいればいい。」と、誰かに言ってもらいたかった?でも言われても納得しなかったかもしれない。
 水面へは、自分のちからで這い上がるしかないのだ。(でも専門のお医者さんへかかってもよかったなとは思う、わたしはその代わりに素晴らしい整体の先生にであった。先生はただ、わたしの躰の歪んだところをやさしくやさしくもとの場所に戻しながら、たまに質問を投げかけてはそれにこたえるわたしの話をふんふんと聞いてくれただけだが、それだけでわたしの肺にたまった海水はずいぶんと外へ排出された。)
 それで基本的には自分のちからで水面へ出るべく、映画を観たり本を読んだり外へ出かけていたりしていて、たまたま出会った一冊の本に、ようやく救われたような気がしている。
 江國香織さんの散文集「物語のなかとそと」そいう本、ここに書かれている江國さんという人は--こんなことを言ったらほんとうにわたしは自意識過剰だとおもわれてもまったくその通りだけどと前置きしつつも--、わたしと同じ「人種」であった。
 ひとつのことが気になったらそれを解決しなければどうしても「気がすまない」ところ、パンと果物をこよなく愛しているところ、アルバイトはなにをやってもうまくいかずいつも「落ちこぼれ」だったところ、「物を考えることがあまり得意ではない」ところ、加えて「模索と判断がきわめて苦手」なところ、絵本が好きで、マーガレット・ワイズ・ブラウンが好きなところ、、、あぁ、もしかしたらこういう人はたくさんたくさんいるのかもしれない。いいえ、きっとゴマンといるだろう。
 でも、そんな江國さんがご自身の孤独だった過去をふりかえって「あれは必要な孤独だった」と書かれていたこと、そして「世界は私になにも要求していない」「私はただそこにいればいいのだ」(『模索と判断』の章。)と書かれていたことが、それらのうつくしい言葉たちの書かれているこの本が、唯一、地上に戻ろうとしているわたしをいまこの瞬間も支えている。育児のできない自分を、ゆるせた気がする。

 さて、私はこうして落ちこぼれの自分をゆるしたまま、しかしこの先も引き続きちいさなふたりの子供を育てていかなくてはならない。もちろん、我が家には「育児に協力的な」、いえむしろ「私よりずっとずっと育児が上手な」夫もいるが(お料理だけは私の方が上手だ)、悲惨なことに彼は1日の大半を仕事によって留守にしている(ほんとうにそれを思うだけでいつも絶望的な気持ちになる)。
 と、そういうわけで、よくある家庭が皆そうであるように、子供たちに食事を与えたり、おやつはごはんのあとで!とたしなめたり、抱っこしてやったり、喧嘩するふたりの話を聞いてやったり、そういうことはほとんどひとりでやらなくてはならない。
 それをどうやって、自分をゆるした状態を保ちながらやればいいのか。自分をゆるすって、つまり「育児のできない自分をゆるす」、イコール「育児をしない」ということだと思うのだけれど、それで考えてみたことは、「自分の思い描く『親らしいこと』はしないでよい」ということ。
 それってつまり、ご飯の前におやつを食べさせないこと、栄養バランスを考えたご飯をきちんと食べさせること、なるべく子供の近くにいて一緒に過ごしてあげること、夜ははやく寝かせること、歯磨きをさせること、お風呂に入れること、喧嘩を上手におさめること、夜に子供を夫に預けてしょっちゅう外出したりしないこと、、、。
 あぁどれも考えただけでよろめきそう。とにかくこれらを、苦にならないようにこなしたい。ご飯の前におやつが食べたいと言われたら、食べさせちゃえばいいや(娘は幼稚園で毎日素晴らしい給食をいただいているから、1食くらいおやつで潰れたっていいよね。それにお腹が空いたらまたおにぎりでも食べさせればいいことだし)。ご飯は栄養バランスというよりも私の食べたいものを用意する(毎日パンと果物だけだからって、多少偏っても栄養失調にはならないでしょう。なにしろ、お昼にすばらしい給食を食べているんだからね)。ひとりの時間が欲しい時は、延長保育や預かり保育を罪悪感なしに利用しよう(とにかく自信を持って、お母さんがブレないでいれば子供も不安にならないらしい)。寝かしつけの時に絵本を読んであげることだけは、私の趣味でもあるので、喜んで読もう。歯磨きは1日一回、寝る前に。仕上げ磨きの時どうしても手がだるくてつらいので、子供の仕上げ磨き用の電動歯ブラシを買う予定。しかも大変な下の子の歯磨きは夫担当。お風呂は、こちらも夫にお任せ。または行水みたいなのでいいや。それもしんどいなら濡れタオルで身体を拭くとかでいいよね(いつだかNHKの「すくすく子育て」で『真夏に3ヶ月お風呂に入ることを拒否した男の子がいたけど、何の問題もなかったよ』ととある保育園の園長先生が語っておられたのを忘れたことはない)。喧嘩の仲裁はしない(「『ごめんなさい』という言葉がなくても仲直りできるのがきょうだいの素晴らしいところだから、喧嘩の仲裁なんてしなくてよい」と大好きな育児書に書いてあったからこれを採用)。夜は、気兼ねなく出かけよう。幸いうちの夫は「いいよ、全部やっておくから心配しないで行っておいで」と言ってくれる神のような人だから、甘えよう。
 そうやって明日からやってみよう。自信を持って。大丈夫。
「世界は私に何も要求していないのだから」(呪文のようにとなえる)。


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